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17世紀以降に激化した外国勢力の進入は、18世紀後半になってポーランドの生存を脅かすようになった。1772年の第1次ポーランド分割後、シュラフタ(マグナート)達は国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキへの権限強化を認め、1791年には国民の基本的人権を幅広く認めた成文憲法を成立させた。しかし、フランス革命の影響を強く受けたポーランドの新体制はロシア・プロイセン・オーストリアなどの周辺各国の恐怖感を煽り、この3国による1795年の第3次ポーランド分割により王国は滅亡した。
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その後のナポレオン戦争でワルシャワ公国が復活し、セイムも再開されたが短命に終わり、旧ポーランド領の多くは1815年成立のポーランド立憲王国を通じてロシア帝国の支配下に入った。ロシアはポーランドの自治権を限定的にしか認めず、1831年にセイムも廃止した。シュラフタは政治的権力をほとんど失い、一部は立憲王国や帝国の官僚として支配体制に参加し、あるいは農民や小農園の領主としてロシア支配に服属した。
第一次世界大戦後の1918年、ポーランドがポーランド共和国として独立を回復すると、新政府は憲法でシュラフタなどの身分制を否定し、法的にはこれでシュラフタの存在が解消された。旧シュラフタ層の農地支配は継続したが、第二次世界大戦でナチス・ドイツがポーランド全土を占領して強圧的な統治を強行し、更に戦後成立したポーランド人民共和国(ポーランド統一労働者党による社会主義政権)が農地改革を実施した結果、社会階層としてもシュラフタは消滅した。ただし、その貴族主義的文化はその後のポーランド社会にも影響を及ぼしているという指摘がなされ[1]、人民共和国時代には統一労働者党の幹部を無教養と皮肉るアネクドートも口にされた。また、その人民共和国、さらに1989年の東欧革命で資本主義体制とともに旧称が復活したポーランド共和国でも議会に「セイム」の名称が使用されている。また、1989年に復活したポーランドの上院には「セナート」の名称が復活した。
イサベル・クララ・エウヘニア・デ・アウストリア (Isabel Clara Eugenia de Austria, 1566年8月12日 - 1633年12月1日)は、オーストリア大公アルブレヒト(ルドルフ2世の弟)の妃。
スペイン王フェリペ2世と、3度目の王妃エリザベート・ド・ヴァロワの娘として、セゴビアで誕生。父フェリペは、息子の誕生より嬉しいと、歓喜したと伝えられている(この時、彼には最初の王妃ポルトガル王女マリアの生んだ長男カルロスがいた。しかし、2人は不幸な断絶状態にあった)。イサベルの母エリザベートは、最初はカルロスの婚約者だった。政治的な理由から、フェリペが彼女を後添えに望んだのだった。このような政略結婚でも、フェリペはエリザベートを大事にし、彼女が天然痘を患ったときにもそばにいようとしたという。エリザベートは、1564年の最初の妊娠で、双子の女児を流産した。次に生んだのがイサベルで、その1年後にはカタリーナ・ミカエラを生んだ。1568年10月にエリザベートは男児を流産し、そのまま帰らぬ人となった。
イサベルは妹カタリーナとともに、父と継母アナに可愛がられて育った。フェリペは冷徹で愛情薄い男性だったと多くの伝記に描かれているが、彼が娘たちにあてた手紙には「お前の善良な父より」と愛情込めて署名されており、エリザベートの生んだ王女たちを愛していたことが伺える。
1568年、2歳のイサベルはルドルフ2世と婚約した。ルドルフの母親マリアは父フェリペの妹であるため、2人は従兄妹同士だった。しかし結婚に対して興味のない奇人ルドルフにより、イサベルは20年以上待たされることになった。
イサベルは、父フェリペのそばで補佐することを許されており、イタリア語で書かれた書類をスペイン語に翻訳していた。彼女は父の亡くなる1598年まで、そうやって父のそばで仕えていた。
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1599年、30歳をすぎたイサベルは、従兄にあたるアルブレヒトと結婚した。彼はトレド大司教であったため、ローマ教皇クレメンス8世に還俗の許可を得てからの結婚となった。その1年前に亡くなったフェリペは、スペイン領ネーデルラントの統治を娘イサベルとその夫に任せると遺言していた。1601年から、2人は共同統治者としてネーデルラントを治めた。夫の死後はイサベルが総督となった。2人が治めていた時代は、ネーデルラントの黄金時代と呼ばれた。さかのぼること40年近く続いた戦争が沈静化し、南ネーデルラントの経済が平和を安定化の方向に導いた。2人は多くの芸術家のパトロンとなり、フランドル・バロック文化の花咲く要因となった。
イサベルは、アルブレヒトとの間にフィリップ、アルブレヒト、アンナ・マウリティアの3子を生んだが、いずれも夭折した。
1621年、アルブレヒトに先立たれたイサベルは聖クララ女子修道会に入門した。1633年、彼女は総督の地位を甥フェルナンド枢機卿に譲った。
ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく)、通称ポルトガルは、西ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。
ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家であり、かつてはヨーロッパ主導の大航海時代の先駆者ともなった。そのためヨーロッパで最初に日本や中国など東アジアとの接触を持った国家でもある。
目次 [非表示]
1 国名
2 歴史
3 政治
3.1 統治機構
3.2 最近の政治状況
3.3 国際関係
4 地方行政区分
4.1 主要都市
5 地理
5.1 気候
6 経済
7 交通
7.1 道路
7.2 鉄道
7.3 航空機
8 軍事
9 国民
9.1 言語
9.2 宗教
9.3 教育
10 文化
10.1 食文化
10.2 音楽
10.3 文学
10.4 世界遺産
10.5 祝祭日
11 スポーツ
12 著名な出身者
12.1 政治家
12.2 聖職者
12.3 スポーツ関係者
12.4 その他
13 脚注
14 参考文献
15 関連項目
16 外部リンク
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[編集] 国名
正式名称はポルトガル語で、Republica Portuguesa。
公式の英語表記は、Portuguese Republic。通称、Portugal。
日本語の表記は、ポルトガル共和国。通称ポルトガル。漢字では葡萄牙と表記され、 葡と略される。
国名の由来は、ポルトの古い呼び名であるポルトゥス・カレの訛りに由来するとされている。
[編集] 歴史
詳細はポルトガルの歴史を参照
1139年/1143年 - ポルトガル王国成立(カスティーリャ王国の宗主下)。
1385年 - カスティーリャ王国(スペイン)から独立。
1415年 - モロッコ北端の要衝セウタを攻略。以後、エンリケ航海王子(1394年-1460年)を中心とした大航海時代演出。
1488年 - バルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込。
1490年 - アンゴラの植民地化開始。
1494年 - トルデシリャス条約をスペインと結び、ヨーロッパ以外の世界を分割。
1498年 - ヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達。
1500年 - ブラジルを植民地化、1822年まで植民地支配。
1543年 - ポルトガル人が日本の種子島に漂着、南蛮貿易の開始(年代については諸説あり)。
1557年 - 明からマカオの居留権を得る。
1578年 - アルカセル・キビールの戦い。
1580年 - スペインに併合される(スペイン帝国)。
1629年 - モザンビークを植民地化。
1640年 - スペインから独立。
1755年 - リスボン大地震。
1807年 - ナポレオン戦争により王室がブラジルに逃れる(1808年から1821年までリオ・デ・ジャネイロを首都とする)。
そのまま、半島戦争に突入。介入したイギリス軍の占領を蒙る。
1820年 - 占領していたイギリス軍を1820年革命で放逐。
1822年 - ジョアン6世がポルトガルに復帰、立憲君主制に移行。
ポルトガル王太子ドン・ペドロをペドロ1世皇帝に擁立してブラジル帝国が独立、ポルトガルは最大の植民地を喪失。
外為
1832年 - 1834年までポルトガル内戦が続く。
1887年 - マカオの統治権を清より獲得。
1910年 - 革命で共和政に移行。
1926年 - クーデターにより軍事独裁政権成立。
1933年 - サラザール、新憲法により独裁開始。エスタド・ノヴォが始まる。
1961年 - インド軍がゴアのポルトガル植民地に侵攻、同植民地を喪失(併合承認は1974年)。
1974年 - カーネーション革命、ヨーロッパ史上最長の独裁政権が打倒される。
1975年 - アフリカ大陸南部の2大植民地、アンゴラとモザンビークなど5カ国が次々に独立。インドネシアが東ティモールに侵攻・同地を占領。マカオ以外の植民地を全面的に喪失。
1986年 - ヨーロッパ共同体に加盟。
1999年 - マカオを中華人民共和国に返還、実質上植民地を全て手放す。
2002年 - 名目上ポルトガルの植民地だった東ティモールが独立を果たし、名実ともに植民地が完全になくなる。