民事再生のここだけの話
1974年にアメリカとフランスが「金廃貨」「金復位」の”神学論争“で激突していたときは、1973年のアラブ産油国による石油4倍化の影響によって世界経済は、インフレと数多くの国が石油購入代金のドルの手当てに苦労していたときでもあった。
先進国は言うに及ばず、発展途上国や最貧途上国は石油購入代金の手当てに困窮していた。
石油消費国から産油国への巨大の富の移転があったが、1974年中のOPEC諸国の純余剰は600億ドルの巨額に達していた。
この最貧途上国の窮状を救うための支援策が、IMFのなかで議論された。
そこから生まれてきたアイディアが、IMFの保有金の「含み益」を活用する支援方式であった。
IMFの公的保有金を市場価格で売却して、簿価との差額を特別信託基金として最貧途上国の支援策にしようという議論である。
この議論の底流には、いまや「金廃貨」となったのであるから、もはやIMFは「通貨としての金」を持ち続ける必要はないだろう、という認識が働いている。
アメリカはこの認識を逆手にとって、じつに上手にたちまわった。
当時、IMFは1億5000万オンスの金を保有しており、そのうちの6分の1つまり2500万オンスの金を特別信託基金にしようという支援策が検討されていた。
アメリカはこの議論のドサクサにまぎれて、「金廃貨」をたてに、さらに6分の1の金を出資国の出資比率に応じて、保有価格(1オンス42.22ドル)で、出資国に返却することをIMF加盟国に認めさせることに成功した。
当時の金の市場価格は約150ドル程度であったので、じつに「格安で」アメリカは、「IMF拠出金の取り戻し」を実現させたのである。
これが第1の局面におけるアメリカの「低価格」水準での「大量の金」獲得作戦であった。
では第2の局面での「アメリカへの金奪還作戦」は、どのようにして行われたのであろうか。
当時の金価格の動きを振り返ると、1973年3月の1オンス ドルから、3月の第1次石油ショックをまたいで、1974年2月には2倍の約180ドルを記録した。
同年7月には130ドルに下落した。
しかし、フォード大統領が同年四月末日を期限とする国民への金保有の自由化法案に署名すると、金は自由化後の大量のヨーロッパの金投機家をあざむいた財務省保有金の放出需要を見越して、再度じりじりと着実に上昇を開始した。
さらに、約2000年ぶりの国民への金解禁が近づくと、金は急騰し始めた。
アメリカの「低価格」での「金の大量」獲得戦略は、ここでもレトリックが使われることになった。
「国民への金所有の自由化」は、国家金備蓄増強というアメリカの本音の仮の姿である。
つまり「金はすっぱい葡萄だ」と言うために「金廃貨」を主張している手前、アメリカ政府としては、直接金の備蓄量を増やすわけにはいかない。
そこで金の国家備蓄にかわって、金の民間備蓄という間接的な方法が選択されたのである。
ところがこのシナリオをゆるがす邪魔者が現れた。
ヨーロッパの金融投機家連中である。
彼らは、アメリカの国民への自由化の前に仕込んで、自由化後にアメリカ人に高値で売りつけて、短期でサャを取ろうとロンドンの金市場に雪崩をうって参入してきたのだ。
これはアメリカの国益に対するヨーロッパの挑戦である。
安値でアメリカ国民に大量に金を購入させることが、アメリカの約2000年ぶりの金解禁の最大の戦略的狙いであった。
そこで、アメリカは一計を案じた。
1974年3月 日の国民への金解禁の直前にいたって、アメリカは財務省の国家金備蓄のなかから200万オンスの金を放出することを発表した。
アメリカがヨーロッパの金融投機家連中の思惑つぶしに出たのである。
このため金価格は、自由化の初日に、197.5ドルの人類の金史上の最高値をつけたが、年明けから急落することになった。
ヨーロッパのアメリカに対する挑戦は、見事に敗北させられたのである。
1974年3月 日は、「国民への金所有の自由化」の日であると同時に、「ニューヨーク金先物市場」の開設の日でもある。
「ニューヨーク金先物市場」開設の狙いが、ロンドンのシティーから「金の価格支配権」を奪い取ることであることは、すでに述べた。
このアメリカの狙いを見透かしたように、1974年3月 日をめがけて、金史上最高値更新がヨーロッパ勢によって仕掛けられることほど、アメリカにとって屈辱的なことはなかったのである。
これはいってみれば、株式市場における仕手戦での「冷やし玉」に相当する手法である。
この唐突な財務省保有金の自由市場への放出には、アメリカ政府の国家意思が強く働いていた。
これを裏付ける状況証拠は、現在のシティ・バンクである当時のファースト・ナショナル・シティ・バンクの豹変に読みとれる。
Cティ・バンクは自由化の1ヶ月ほど前にはさかんに、窓口で金の販売をおこないます、とPR活動をしていた。
ところが自由化の当日から、紺色の表紙に金色で”のOPPと印刷されたきれいな見開きのパンフレットで、「金の売買には手数料や税金が高く、少々の値上がりではコスト割れしてしまう」から、金投資がいかに割りに合わないかを具体例をあげて力説する「金の不買」キャンペーンを開始した。
まさに豹変したのである。
あと数週間で自由化という時点で、ある世論調査は、およそ1200万人の国民が金を買う計画があると発表している。
アメリカ政府は何も手を打たないで自由化を実施したら、金価格は上昇を続け、アウト・オブ・コントロールになる恐怖に襲われたに違いない。
そこでアメリカ政府は、200万オンスという現物の放出を政府自ら市場にぶつける、と同時に有力な金融機関に「不買キャンペーン」を行わせたのである。
放出のアナウンスメント効果は十分にあった。
ところが、アラブ諸国や外国政府の入札は拒否したり、入札単位を400オンス(約 キロ)にしたため、小口の入札は事実上排除されて。
結果的に放出したのは5万4000オンスであった。
アメリカ政府は自由化直後の1975年1月6日の第1回財務省保有金の放出にIMFのキングストン合意をテコに、金の安値買い実行続いて、金価格の下降トレンドを市場に印象づけるために、追い討ちをかけるように、6月に第2回の財務省保有金 万オンスの放出を発表したのである。
1975年6月に向かって、金価格は130ドル近くまでほぼ一直線に下落を続けた。
アメリカは金価格の上昇圧力を力ずくでねじ伏せたのである。
見方を変えれば、いかにアメリカが「安い価格」でのアメリカ国境線の内側への戦略的な「金の囲い込み」を狙っていたかが読みとれる。
だが、アメリカは抜け目なく、かつてブレトンウッズ体制が揺るぎ無かった時代にIMFに拠出していた金を、最貧途上国の支援策の議論にからめて「低価格」で奪回したことは、先に見てきたとおりである。
これはアメリカの「低価格」での「大量の金」獲得作戦の第1局面の話であるが、財務省保有金放出の「冷やし玉」で失った金の取り戻しの意味もあったのである。
さてこれから、「低価格」での「アメリカへの金取りこみ」作戦の第2局面の話に入る。
じつはこれもIMFの1976年1月の「キングストン合意」を、たくみにアメリカが利用した高等戦術であった。
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